Episode

90年の時を越えて、 語り継がれるさまざまな出来事。
川奈の歴史を紡いできた数多の物語。

Episode 00 バロンと呼ばれた男

大倉財閥の創業者である大倉喜八郎の息子で二代目総帥となる大倉喜七郎は、 1882年 (明治15年) に東京赤坂区 (現東京都港区虎ノ門) に生まれました。

慶応大学卒業後、 イギリスのケンブリッジ大学へと留学し、 そこで自動車の操縦や修理技術まで習得し、 ブルックランズ・サーキットで初開催されたカーレース 「モンターギュ・カップ・レース」 において、 イタリア製フィアットのレーシングカーを操縦して2位入賞という実績を残します。

同年、 おみやげとして自動車5台とともに日本に帰国し、 そのうちの自動車1台 (メルセデス)を皇族の有栖川宮さまに献上するため、1909年 (明治42年)福島県の猪苗代湖畔にある有栖川宮別邸を訪ねる自動車旅をしました。そこで有栖川宮威仁親王、 伊藤博文公、 朝鮮王朝の李王垠殿下を乗せ、 自らの運転で試乗会も実施しています。 ※この時の写真は川奈ホテルの本館2階ライブラリーに飾られています。

その後、 父喜八郎の事業を引き継ぎ財閥の発展につとめ、 戦後の公職追放、 財閥解体などの難局に直面しながらも、 帝国ホテル会長、 川奈ホテル、 赤倉観光ホテル、 ホテルオークラを建設し日本ホテル協会会長に就任するなど、 日本のホテル業に大きな軌跡を残しました。

左前は大倉喜八郎、 右中断に若き日の大倉喜七郎男爵が写っている。 英国貴族との写真だがどこで撮られたのかは不明。
猪苗代湖畔での試乗会。 運転手は大倉喜七郎男爵。 手前から朝鮮王朝の李王垠殿下、 有栖川宮さま、 伊藤博文公。
稀代の趣味人と言われ、 気前が良くハイカラな装いから 「バロン・オークラ」 と呼ばれていた大倉男爵。
英国のブルックランズ・サーキット 「モンターギュ・カップ」 で2位となったFIATに乗った大倉男爵。

気さくで気前がよく、 派手好みなハイカラ男爵だったため、 周囲からは 「バロン・オークラ」 と呼ばれて親しまれていました。 日本屈指の趣味人とも言われ、 囲碁、 音楽、 文学、 絵画、 舞踊、 スポーツ、 など多くの文化の発展に寄与しました。 囲碁では、 日本棋院会館の設立に尽力、 名誉総裁に就任しています。

現在、 大倉喜七郎賞があります。 音楽では、 オペラ、 長唄、 義太夫など多くの分野に精通し、 楽器では、 尺八とフルートを合体させてオークラウロという楽器を作っています。 他にも帝国ホテルを本拠とするオーケストラ 「東京シンフォニー管弦楽団」 を結成。 オペラ歌手・藤原義江の支援、 バレエ団 「川奈楽劇団」 の結成など、 日本における西洋音楽や舞踊の普及活動に尽力しました。

文学では川端康成、 島崎藤村らをポケットマネーで支援し、 美術では、 絵画、 特に現代日本絵画にはパトロンとして多くの芸術家を育て、 横山大観など有名な芸術家を支援していました。 その収集した作品は、 ホテルオークラ横にある大倉集古館に現在展示されています。 スポーツ部門では札幌の大倉山ジャンプ台を建設し、 札幌オリンピックの会場にもなっており、 今でも世界大会で使用されるなど歴史あるジャンプ台となっています。

稀代の趣味人とも言われた大倉喜七郎だったからこそ、 川奈ホテルも含めて、 歴史や文化の中で今でも語り継がれるような伝説を残せたと言えるでしょう。

Episode 01 夢のカントリー
エステート

療養中に伊豆の山を馬に乗りながら散策していた時に
偶然川奈の地を発見し夢を叶える場所と決めた。
土地を購入する前に風光明媚な川奈の地を望む
大倉と視察団の貴重な1枚。

イギリス貴族のお城と荘園のある風景と生活、 スコットランドのグレンイーグルスホテルを夢見て、 日本の地に自身の夢を叶えるべきして作ったのが川奈ホテルです。

大正時代に大倉男爵が中国での探鉱事業に失敗したことから200万円 (現在の約72億円) の損失を出し、 父喜八郎の逆鱗に触れたことから、 ノイローゼになり伊豆で療養をしていました。 馬に乗りながら伊豆山中を散策していたところ、 素晴らしい景勝を望む川奈の地を偶然発見し、 莫大な金額を地元民に支払い60万坪の土地を買い取ったのです。

「川奈」 の地名は 「川無し」 に由来し、 この地域は名前の通り付近に水を確保する河川がなく、 農耕などにも向かない利用価値の少ない土地でした。 したがってホテル建設の際は、 水の確保が最優先に行われました。 川奈ホテルを造るにあたり、 大倉男爵は土地の買収をする際に川奈地区の住民と交渉し、 こんな約束をかわしました。

「土地を渡す代わりに川奈には水が足りない。 飲料水の確保と住民が働く場所の提供をしてほしい」。

大倉は住民の声を聞き、 住民のために天城山中の12km離れた水源から水を引く工事を提案し、 その事業費数万円(現在の価値で2億円ほど)を負担することにしました。 水は天城山中から伊東市の小室地区を通り、 川奈地区へと土管パイプで引かれました。 これにより地主たちは長年、 抱えていた水不足の問題を解決できる見通しが立ったのです。 川奈ホテル建設の裏にあった大倉と地元住民との交流の一幕です。

村民からは使い道のない、 溶岩台地を買い取った大倉の真意を疑うとともに、 大金を手にすることができ、 さらには水も確保できたことを大変喜んだと伝えられています。

視察中に木陰で休む大倉男爵と侍従。
当時の川奈村住民と土地買収における交渉団。

Episode 02 始まりの大島コース

大島コースの造成をするために、 重機を使わず、
溶岩台地に土を人力で巻く当時の作業員の風景。
開場当時のクラブハウスと従業員。
大島コースクラブハウスには宿泊機能も備わっていた。
開場当時の現在のNo. 1 ホールグリーン上でのプレー風景。

1928年 (昭和3年) 川奈ホテルの歴史はホテルではなく大島コースから始まりました。 現存する日本のゴルフ場の中では12番目に古いゴルフ場です。

創業者の大倉喜七郎は、 当時英国風の城や荘園を川奈の地に作ろうと、 60万坪という広大な土地を村民から購入しましたが、 大室山や小室山が噴火した際につくられた溶岩台地では牧草が育たず馬や牛の蹄も痛むことや、 当時の大倉組の重役たちから真っ向から反対されたことから、 スコットランドなどのリンクスコースをイメージし、 ゴルフ場建設へと計画を変更しました。

昭和初期にショベルカーなどの重機はなく、 小田原から土を船で運び、 土の中に種があることから土を一度焼き、 人力で広大な敷地に土を敷き詰め、 目土をして芝を張りゴルフ場を作ったのですから驚きです。

設計者は日本のゴルフの父と言われる大谷光明氏。

開業当時はクラブハウスがあり、 25名まで宿泊できるホテルも兼ねていました。

各ホールにはそれぞれニックネームが付いており、 当時の首相や有力者によって名づけられました。

大島を臨む岸壁に打ち付ける波の音を聞きながら、 乗り入れ可能なカートでリゾートゴルフの醍醐味を存分に楽しむことができるのが大島コースです。

大島コースのクラブハウスで撮られた写真だが、
ひとりひとりが威厳すら感じる写真。

Episode 03 大戦前夜の
インバウンド

建設中の川奈ホテルでの地鎮祭の様子。
当時の建設作業員が集まっている。
開業当時の川奈ホテルの写真。
90年経過した今とほとんど変わらない佇まいを見せている。

1928年 (昭和3年) の大島コース開場から5年後の1933年 (昭和8年)。 静岡県が導入しようとした奢侈税 (現在のゴルフ場利用税に近い娯楽税) に対し、 創業者の大倉喜七郎が猛反対し、 抗議の意を表して大島コースを閉鎖しました。 この件で政財界からも大島コース再開を望む声が多数上がり、 後に総理大臣となる鳩山一郎氏等の有力者が仲介し、 静岡県と鉄道省観光局から低利子で融資を受けられることを条件に解決策が出されました。

当時の日本は、 満州事変をきっかけとしたアジア諸国への侵攻で国際連合から脱退するなど、 世界から孤立しており、 外貨獲得のためにインバウンド誘致に力を入れようと、 政府は1934年に国際観光局を設置し国際的なホテル建設を進めようとしていました。

大倉男爵が川奈の土地を購入した当時は、 自らの別荘として英国風のお城を建設しようと考えていましたが、 川奈ホテルの建設もその国策と低金利による融資に後押しされる形で建設計画が進められ、 1936年 (昭和11年) 川奈ホテルが開業し、 時を同じくして富士コースも開場しました。

開業時は62室、 2ゴルフコース、 プール、 テニスコート、 上水道を持ち、 当時としては鉄筋コンクリート造の画期的な建築で、 貴族や外国の客人をもてなすことができる唯一無二の日本のリゾートホテルとなりました。

当時の政財界や貴族の中では川奈ホテルで休暇を過ごすことがステータスとなっていたほどです。 しかし、 開業から間もなくして日本軍の真珠湾攻撃から太平洋戦争が始まり、 川奈ホテルは激動の時代の渦の中へ巻き込まれていきます。

富士コースNo.14横の丘から撮った海越しの富士山。
当時も今もこの景色の美しさは変わらない。
開業当時の従業員を集めた記念写真。
中央に座っている人物が帝国ホテルから抜擢された初代支配人のルディ・バスラー氏。

Episode 04 野良着からの変身

当時のキャディーはセーラー服姿の制服であった。
当時の玄関のベルスタッフの制服。
今でもお洒落と思えるような制服である。
前庭階段での当時の従業員の集合写真。

1936年 (昭和11年) に川奈ホテルが開業してから、 伊東や川奈の地は大きく変わっていきます。

伊豆のひなびた村にゴルフ場ができ、 お城のようなホテルが建ち、 半農半漁の川奈の村民にとってはペリーが下田に来た時の黒船襲来のような衝撃だったのでしょう。

そして、 川奈ホテルができたことで、 それまでは漁業や農業で生活をしていた村民にも新たな雇用が生まれ、 田舎町でモンペを着ていた村民も白いセーラー服、 ホテルの黒服やメイド服を着て別世界で働ける川奈ホテルが、 憧れの職場となったことは想像に難くありません。

当時から伊東の人気就職先は役所と川奈ホテルでした。 それは給与面の処遇もあったのでしょうが、 今の時代も制服に憧れて高校を選ぶように、 川奈ホテルで働くことは、 一般庶民とは隔世された貴族の社交場の世界に立ち入ることできる唯一の場所であり、 和から洋へのファッション変化の場所でもあったのです。

素潜り漁をしている写真。 川奈の住民にとって海は遊びの場であり、 生活するための場所でもあった。

Episode 05 まぼろしの
富士コース

大島コース開場から8年後の1936年 (昭和11年)。 川奈ホテルの開業と時を同じくして富士コースが開場しました。 開場記念日の12月6日に行われたゴルフ場完成式は、 皇族の久邇宮朝融王、 朝香宮鳩彦王、 東久邇宮稔彦王の他、 様々な名士が出席する華やかな開場式典でした。

設計は世界的に有名なゴルフコース設計家 「チャールズ・ヒュー・アリソン」。

しかし、 当初の予定は日本人設計家の赤星六郎氏による設計で、 コースも6ホールが完成していました。 そんな折、 アリソンが東京GCや廣野GCの設計をするため日本に訪れていることを聞いた大倉男爵が、 多額のギャラを大倉喜七郎のポケットマネーから払い富士コースの設計をアリソンに依頼しました。 アリソンは、 大島コースのクラブハウスに滞在し、 富士コースエリアを自分の足で歩き球を打ってコース設計を考え、 帰国後に送られてきた図面を基に富士コースが完成しました。 当時は未開拓の地であった富士コースの土地であったためコースを 「造る」 というより 「創る」 に近かったのかもしれません。

富士コースを設計したC・H・アリソン。
当時のギャラとしては破格の1万円 (現在の価値で約2,700万円) であった。
開業当時の12番ホール。
樹木はほとんどなくほぼ更地が広がっていた。
富士コース開場当時に飛行機から撮った航空写真。
開拓用の器具であろうか… 人力で造成していた時代から変化が生まれてきた時代の移り変わりが見える。

また、 後に日本のコース設計家として有名になる井上誠一氏が、 川奈ホテルでアリソンを見てゴルフ場の設計家を目指したと言われています。 そういう意味でもアリソンの来日は、 日本のゴルフ場の設計における原点でもあったとも言えるかもしれません。

完成した富士コースは、 OUTコースは海へ向かえば山へ行き、 上り下りのアップダウンの連続でゴルファーを苦しめます。 そして半島に突き出たINコースのランドスケープは、 見るもの全てを魅了する圧巻のスケールです。 名物となっている壁のように反り立つアゴの高い 「アリソンバンカー」。 その形は迫りくる波をイメージしているとも言われています。

世界ゴルフ場100選に毎回選出される富士コース。 もしアリソンの来日がなかったら…もし来日する時期がズレていたら…今とは全く違う赤星六郎氏設計の富士コースがあったかもしれません。

Episode 06 戦時下の生き残り策

横須賀海軍病院川奈分院として日本軍に接収された当時の海軍将校や軍人と川奈ホテルスタッフの集合写真。
日本軍に接収されていた時代の看護婦たちの集合写真。

1941年 (昭和16年) 12月、 太平洋戦争が日本の真珠湾攻撃を皮切りに始まり、 川奈ホテルも戦争の影響を受け激動の渦の中に飲み込まれていきます。

戦争開始直後、 戦時交換船で帰国するまでの間のイギリス大使館やアメリカ大使館員の抑留先として一時的に川奈ホテルが使用されました。

大使館員が帰国した後の1942年 (昭和17年)、 戦争の激化とともに、 川奈ホテルは日本海軍に接収され、 戦地からケガや病気で帰国した兵士を療養するための海軍病院として使用されます。 戦時下でゴルフをすることなど許されない時代であり、 食糧難から大島コースの一部をジャガイモ畑やサツマイモ畑として開墾しました。 また、 当時のエピソードとして、 陸軍大将であった東条英機に目を付けられたとき、 近くの農家から牛や馬を借りてきて、 ゴルフコースを牧場に偽装したというエピソードも残っています。

戦時中、 日本中に空爆で爆弾が降り注ぐ中、 川奈ホテルの敷地にはアメリカ軍機による機銃掃射や爆弾も落ちなかったそうです。 戦後、 川奈ホテルは真っ先にアメリカ軍やイギリス軍などの進駐軍によって接収されます。 爆弾が落ちなかった理由も病院という理由だけでなく、 戦後のことを想定した進駐軍側の狙いがあったのかもしれません。 そして終戦7年後の1952年 (昭和27年)、 講和条約発効により、 接収が解除され、 財閥解体などの難局があったものの、 川奈ホテルとコースが大倉の元に戻ってきます。

終戦後アメリカ第8軍に接収された当時のメインダイニングでの集合写真。
進駐軍は日中はゴルフやテニス、 乗馬を楽しみ、 夜はパーティーやダンスをして過ごしていた。

Episode 07 進駐軍との交流

戦後、 川奈ホテルは真っ先にアメリカ軍によって接収されます。

1947年にはアメリカ軍に代わりイギリス軍によって接収され。 その後オーストラリア軍にも接収されます。

当時の各国の接収軍は、 ホテルのスタッフに対し、 客と従業員として接していただけでなく、 野球イベント、 音楽イベントなどで交流を図るとともに、 近隣の住民を呼んでの交流イベントを開催するなど地域との繋がりも大切にしていました。

接収時代の川奈ホテルの絵画に纏わることでおもしろいエピソードがあります。

現在も飾られているサンパーラー前にある当時の川奈ホテルを描いた大きな絵画は、 川奈ホテルの美術担当である繁岡鑒一氏が、 戦後の1947年 (昭和22年) に描いたものです。

接収が解除される直前にその事件は起きました。

オーストラリア軍の将校が帰国の戦利品として、 サンパーラー前に飾られている絵画などを持ち帰ろうと兵士を引き連れて川奈ホテルに来ました。

進駐軍の子どもの誕生日パーティーをホテルの日本人スタッフとともに祝っている1枚。
牛をトナカイ代わりにサンタクロースの格好でクリスマスを楽しむ当時のスタッフ。
着物を着たホテルスタッフの子どもたちと交流するイギリス軍士官。
地元の子どもたちをホテルに招いた交流イベントなども開催されていた。

しかし、 アメリカ軍やイギリス軍はそれに抵抗し、 川奈ホテルの財産を持ち去ろうとしたオーストラリア軍に対し、 断固として反対し阻止したそうです。 結果オーストラリア軍は、 何も持ち帰らずに帰国することになったそうです。

当時のアメリカやイギリスの進駐軍が、 「川奈ホテルの絵画は川奈ホテルの物である」 という川奈に対する想いや気概が貴重な絵画等を守ってくれました。

当時の川奈ホテルには貴重な絵画や美術品がたくさん飾られていました。 戦後、 美術鑑定が行われ、 中には国宝や重要文化財となるものも多数あり、 現在は東京のホテルオークラ近くにある大倉集古館で保管されています。

Episode 08 川奈が育てた
日本のプロゴルフ

1928年 (昭和3年) の大島コースが開場し、 1936年 (昭和11年) に富士コースが開場すると、 川奈ホテルゴルフコースには全国から多くのゴルファーが殺到し、 週末には多くのキャディが必要になりました。 不足するキャディを補うため、 中学生や高校生くらいの少年たちを日雇いバイトとして雇うため、 川奈や富戸にバスで迎えに行き、 キャディとして働いてもらいました。 当時の給与は1回のキャディにつき¥70~80程度で、 ひとりで2本のバッグを担いでいたそうです。

川奈でアルバイトをしていた少年たちは、 ロストボールを見つけると自作の木を削ったクラブで打ったりして遊んでいたことから始まり、 そんな地元の子供たちが集団となり、 後に川奈会という川奈出身のプロ集団へと変貌していきます。

川奈ホテルには当時、 後に日本人初となるマスターズ出場や日本のゴルフ会ではレジェンドとなる陳清水プロがゴルフの修行をするために住んでいました。 陳清水プロは、 当時まだゴルフボールが高価なものであったことから、 コースで拾ったロストボール30個と自分の使い古したクラブ1本を交換するという約束で、 少年たちに自らの中古クラブを渡していました。 少年キャデイたちは、 ロストボール目当てにコースに忍び込みボールを探すとともに、 物々交換により段々と増えていったクラブで、 富士コース脇の林道を通り、 コースに侵入し、 早朝や夕刻に 「盗みゴルフ」 をして遊ぶようになります。

日雇いアルバイトでお金を稼いでいた川奈近隣の少年たち。
やがてこの少年たちの多くがプロになっていく。
当時の従業員と陳清水プロのホテル前庭で撮った写真。
写真中央下に座っているのが陳清水プロ。
週末などの混雑するときは、 早朝から川奈や富戸にバスでキャディを迎えに行くためのバスが運行された。
ティショットをしている杉本英世プロ。 奥には陳清水プロが写っている。

そんな少年たちの中にプロゴルフ界でもBIG3と言われるようになる杉本英世プロがいました。 川奈ホテルも地元の少年たちのそのような行為は知っていたものの、 地元の子どもだからとうるさくは言っていなかったようですが、 時には監視員が見回りに行くこともありました。 そんな折、 杉本英世プロと後に川奈ホテルのヘッドプロとなる杉本国明が 「盗みゴルフ」 をしているのがバレ、 監視員にボールを取られてしまいます。 杉本英世は大切なボールを返してもらうようにお願いしましたが、 結局言い争いになり体格もよかった杉本が、 監視員をバンカーに投げ飛ばしてしまうという事件がありました。 そのことがきっかけで川奈ホテルの就職時に問題視されましたが、 試用期間を経て川奈ホテルに無事に就職することになります。

1952年 (昭和27年) に川奈で日本オープンが開催されると、 中村寅吉プロが優勝し、 それを見た少年たちは、 漁師よりプロになりたいという夢を持つようになっていきます。

そして川奈で育ち、 川奈で修行した少年キャディ達はお互いに切磋琢磨し、 やがて川奈出身のプロ集団になっていきます。 川奈出身プロだけでも120名、 その弟子まで入れると1,200名いる日本のプロの約1割を占めるほど、 川奈一門は日本のゴルフ界において大きな流れを作ることになったのです。

Episode 09 世界的スターの来館

ホテル玄関前で撮られたディマジオとマリリン。
ジョー・ディマジオとホテルスタッフの記念写真。

太平洋戦争が終結し、 進駐軍による川奈ホテルの接収が解除されるとたくさんの著名人が来訪しました。

その中でも今から70年前の1954年 (昭和29年)。 ニューヨークヤンキースのスター選手であったジョー・ディマジオと、 女優のマリリン・モンロー夫妻が新婚旅行で来日しました。

当時の世界的スターふたりの来日は、 国内でも大きく報道され話題となり、 空港の滑走路まで押し掛けた報道陣やファンにより荷物口から出ることしか出来ず、 予定されていたパレードも中止になるほどでした。

滞在は東京の帝国ホテルに4泊した後、 東京での取材攻勢から逃れるように、 お忍びで川奈ホテルに宿泊しました。 報道陣を完全にシャットアウトし川奈ホテルでは本館316号室に2泊し、 滞在中はホテルの前庭を散策したり、 川奈港を見学に行かれたり、 ゆったりと川奈の自然の静寂を楽しむなどして、 束の間の新婚旅行を楽しんでいたと言われています。

その中で夜中にお腹をすかせたモンローが夜食を望みましたが、 深夜の時間に厨房には見習いのコックしかおらず、 材料的にも調理できるのはオムライスだけでした。 世界的スターのオーダーを断ることもできず、 それをルームサービスで提供したところ、 そのオムライスをモンローがいたく気に入り、 毎夜2晩お召しあがりになりました。

正規のメニューではありませんでしたが、 それを復刻したオムライスは、 今でもホテルのレストラン 「グリル」 と 「サンパーラー」 で提供されています。

ここからは余談ですが、 滞在中に注目されるのはモンローばかりで、 自由奔放なモンローと嫉妬心からか新婚旅行中もディマジオとは喧嘩ばかりしていたそうです。

その後、 福岡と広島などを巡り、 新婚旅行中でもあったにもかかわらず、 モンローは単身で朝鮮戦争のアメリカ軍への慰問へ行っています。

米国帰国後にふたりは離婚し、 1962年に絶頂期でもあったモンローは謎の死を迎えます。

近親者以外ただひとり葬儀に参列したディマジオは、 モンローの遺体の前で涙を流しながら何度も愛していると言ったと伝えられています。

そして、 その後もディマジオは生涯独身を貫き、 モンローの墓前に毎週赤いバラを20年間送り続けました。 そしてディマジオが亡くなる数日前、 友人に 「これでマリリンに会える」 と言って息を引き取ったそうです。

Episode 10 ハリウッドの風が吹いた川奈

ロケ中に撮られたジョン・ウェイン氏。
ジョン・ウェイン氏が川奈港に来航した時の様子。
当時の映画 「黒船」 のポスター。 洋画タイトルは 「The Barbarian and the Geisha」 であった。

1957年 (昭和32年)。 川奈ホテルにとって、 この年は忘れることのできない出来事が重なった一年でした。

同年3月には、 富士コースに川奈崎灯台が竣工。 海を望む絶景コースに、 新たな象徴が誕生します。

しかし、 その年の12月に本館3階で火災が発生しました。

そんな出来事の中、 川奈ホテルには思いがけない来訪者が長期滞在することになります。

西部劇でも有名なハリウッドを代表するスター、 ジョン・ウェインをはじめとする 「黒船」 の撮影のために来日した映画関係者たちです。

映画は1957年10月から約5ヵ月にわたり日本各地で撮影が行われ、 川奈周辺もその舞台の一つとなりジョン・ウェインも約2ヵ月間川奈ホテルに滞在しました。

ロケ地は、 当初は下田漁港を予定していましたが、 当時の下田はすでにその時代の面影を残しておらず、 まだ昔の名残のあった川奈漁港を下田の町に見立てて撮影が行われました。

ホテル滞在中、 ジョン・ウェインが食事を終えるまでグリルを閉めないよう指示が出されており、 ロケで時間の読めないスタッフは、 朝から夜まで対応に追われていました。 その忙しさに、 疲労困憊だったと当時を振り返る声も残っています。

それでも、 ジョン・ウェインは、 スタッフにも隔たりなく接するとても気さくな人物だったそうです。

サインや写真撮影にも気軽に応じ、 周囲の人々に温かな印象を残しました。

ロケのないオフ日には、 川奈から船をチャーターして東京まで遊びに行っていたというエピソードも残っています。

時代の出来事とともに刻まれた、 川奈ホテルの記憶のひとつ。

世界的スターの滞在は、 ホテルの歴史の中でも印象的なエピソードとして語り継がれています。

そしてその後も、 川奈ホテルは歴史ある建物と美しい景観を背景に、 映画やテレビドラマ、 ミュージックビデオなど多くの映像作品の撮影場所として利用されています。

Episode 11 日本初のゴルフ世界大会の開催

開会式はホテル前のプールサイドで行われ、 始球式として海に向かってボールが打たれた。
5位入賞した日本チーム。 左から石本喜義、 鍋島直要、 中部銀次郎、 広瀬義兼。

1962年 (昭和37年)、 日本で初の世界的なゴルフ大会となる第3回世界アマチュアチーム選手権が川奈ホテルGC富士コースで開催されます。 その構想の始まりは日本側からアマチュアによる日米対抗のチーム戦をしたいと全米ゴルフ協会に打診したところ、 米国には他の国からも同じようなオファーが多数あり、 日米対抗の代わりに世界チーム選手権を提案したところ、 そこにR&Aも加わり、 58年5月、 35ヵ国による世界アマチュアカウンシルが設立され、 同年10月に第1回世界アマチュアゴルフチーム選手権がスコットランドのセントアンドリュース・オールドコースで開催されます。 2年後の60年にはアメリカのメリオンで開催されジャック・ニクラスを擁した米国選抜が優勝。 そして62年の第3回大会は日本の川奈で開催されました。

当初、 開催候補として東京GCと霞ヶ関CCの名も挙がっていましたが、 選ばれたのは川奈ホテルGC富士コースでした。 川奈ホテルは、 当時207名の宿泊収容力を持ち、 参加42ヵ国、 168名の選手と関係者を同時に収容することができ、 友好と国際親善が深められると評価されたためでした。 日本はキャプテン石本喜義、 中部銀次郎、 鍋島直要、 広瀬義兼という当時の日本アマチュア界を代表する4名が出場して5位の成績を収めました。

優勝したアメリカチームに帯同したキャディが一緒にトロフィーを掲げる。
当時発行されたパンフレットには、 アイゼンハワーカップとアイゼンハワー大統領の挨拶文が掲載されている。

Episode 12 皇室に親しまれた川奈

1965年 (昭和40年) 皇太子時代にご来館された上皇・上皇后両陛下のご来館時の様子。
1970年 (昭和45年) 昭和天皇・皇后両陛下行幸啓。

2010年 (平成22年) 4月、 上皇・上皇后両陛下が、 プライベートのご静養のため川奈ホテルにご来館されました。

両陛下にとっては、 1965年 (昭和40年) の皇太子時代のご来館以来、 2度目のご光臨です。

ご滞在としては、 非常に珍しい2泊。 陛下はインペリアルスイートにご宿泊され、 滞在中には執務も行われました。

ホテルの創業者大倉喜七郎が使用していたテーブルと椅子を山側の客室に配置し、 執務室としてお使いいただきました。

この陛下がお使いになったテーブルと椅子は、 本館2階のライブラリーでご覧いただけます。

滞在中の警備は非常に厳重で、 エレベーターホール・階段・非常口の3箇所に皇宮警察が24時間体制で警戒し、 3階への立ち入りは、 許可された数名のみ可能でした。

お食事は、 事前にお好みのメニューをお選びいただき、 サービススタッフは陛下の後ろを通らず、 話しかけず、 質問にのみ応答する形で提供されました。

ボーイステーションには、 地元のお菓子や飲みものなど十種類以上の品が用意され、 細やかな配慮が行き届いていました。

滞在後、 地元の駅長によると、 両陛下は須崎の御用邸へ電車で向かわれる際、 車窓から川奈ホテルが見れる橋まで行くと、 ご覧になるため窓際に立たれ、 通り過ぎるとお座りになるなど、 川奈ホテルを心に留めてくださっていたという様子が伝えられています。

戦前には、 皇族の久邇宮朝融王、 朝香宮鳩彦王、 東久邇宮稔彦王が度々川奈に来訪されただけでなく、 1970年 (昭和45年) には、 昭和天皇もご来臨され、 皇族の皆さまにも親しまれたホテル・ゴルフコースとして、 ホテルのスタッフもそのことを今も誇りに思っています。

左から2番目が東久邇宮稔彦王、 3番目が大倉喜七郎。
上皇陛下が使用した執務テーブルも飾られているライブラリー。

Episode 13 川奈ホテルが迎えた国際舞台

洋風宴会場にて行われたASPAC開会式。
ASPAC会議に参加する時の首相であった佐藤栄作氏。
ASPAC開催のために新たに建設された大会議室。

1969年6月。 静かな海辺のリゾートである川奈ホテルは、 このとき国際政治の舞台へと姿を変えました。

アジア太平洋協議会 (ASPAC) 第4回閣僚会議の開催地となり、 世界の注目を集めることになります。

会議には、 日本、 オーストラリア、 中華民国 (台湾)、 大韓民国、 マレーシア、 ニュージーランド、 フィリピン、 タイ、 ベトナム共和国 (南ベトナム) の9ヵ国が参加。

さらにラオスがオブザーバーとして出席しました。

当時の首相・佐藤栄作は、 自衛隊のヘリコプターで川奈ホテルに到着し、 各国代表を歓迎します。

穏やかなリゾートの空に、 時代の緊張感が漂う瞬間でした。

開会式はホテルの洋風宴会場で行われ、 各国代表が挨拶を交わした後、 本会議はホテル内の大会議室で開催されました。

ラウンジには各国の報道関係者のためのプレスセンターも設けられ、 会議の様子は世界へと発信されていきます。

会議では、 アジア太平洋地域における協力や安全保障、 経済交流などについて議論が交わされました。

一方その頃、 会議開催に合わせて周辺地域では、 反戦・反政府を掲げる労働組合や学生らによる抗議行動も起きていました。

伊東市内では当時の学生運動の影響で過激なデモ活動が発生し、 観光施設の営業への影響や来訪者の減少なども報じられていました。

その検挙者は200名以上にのぼり、 けが人も多数出ました。 現場ではゲバ棒や火炎瓶なども押収されたと伝えられています。

こうした時代背景の中、 厳戒態勢で開かれたこの会議は、 川奈ホテルが国際会議の舞台となった代表的な出来事の一つとして、 現在も地域の歴史に刻まれています。

その後も川奈ホテルは、 日英市場協議会開催や日米独三国間協議に使用されるなど、 様々な歴史を作る国際会議の舞台となっていきました。

Episode 14 プロトーナメントの開催までの軌跡

川奈ホテルゴルフコースは、 戦前に日本プロ、 日本アマを開催し、 戦後は日本オープン、 日本プロ、 1962年 (昭和37年) に開催した世界アマチュア選手権を最後に、 名門コースとしての気品を保つため、 スポンサートーナメントは開催しないという方針を守っていました。

しかし、 1980年 (昭和55年) にそれまで他コースで開催されてきた男子プロツアー 「フジサンケイクラシック」 を川奈の富士コースで開催するとフジサンケイグループから発表になります。

当時はホテルに宿泊する客の記念撮影すら制限していたほどであり、 川奈ホテルとしてはこのニュースは180度方針を転換する決定でした。

その背景には、 それまでは限られた一部の上流階級の社交場として運営していましたが、 バブル景気の影響やゴルフ界も尾崎将司プロ、 中嶋常幸プロ、 青木功プロなどの活躍の影響で活況になり、 日本にも世界に誇れるコースがあることを広く再認識してもらう機会と、 本トーナメントがチャリティーの要素が含まれており、 社会的にも貢献できること。 また、 当時は伊豆地方一帯が地震の影響で客足が遠のき、 観光業界にも深刻な影響があったことから、 地域を活性化させる起爆剤としての役割を担おうと考えてのトーナメント開催決定となりました。

1981年の川奈での初開催となるフジサンケイクラシックの前夜祭では、 招待客も内容も豪華絢爛なものであった。
1987年大会時に連続チップインにより奇跡の大逆転優勝を決めた尾崎将司プロ。
2024年第42回フジサンケイレディスクラシックを最後に歴史ある大会も中止となる。

本イベントの開催決定には、 伊東市だけでなく東海バスや伊豆急などの地元企業も賛同し、 最大限バックアップすることを約束してくれました。 そして当時のフジサンケイグループが、 そんな閉鎖的な川奈での開催を決定する発端として、 フジテレビの鹿内副社長から同級生でもあった戸張捷氏に、 新たにドラマチックな開催コースを探してきてほしいという依頼から、 「川奈がいい!」 という鶴の一声で、 戸張氏が粘り強く説得したことから開催決定に至りました。 そして、 プロの大会としては初となるプロアマトーナメントの開催や、 たくさんの芸能人を呼び人気番組であった 「夜のヒットスタジオ」 のサテライトスタジオを川奈に設置し配信するなど、 考えられる全ての華やかさを入れた大会ということで大きな話題となりました。

大会はトーナメントディレクターの戸張氏の提案で、 18番を1番にずらして、 最終ホールを17番にすることで、 最終ホールが海が抜けて見えるように変更されました。

中でも尾崎将司プロが、 1987年のフジサンケイクラシック最終日に、 パー5の16番 (通常の15番) でラフからチップインイーグルを奪い、 続くパー3でもグリーン右手前の崖下からのアプローチで連続チップインを入れて逆転優勝した伝説は今でも語り継がれています。 後に中嶋常幸プロの談としてジャンボとの会話で 「俺は川奈に愛された男だった」 と自身が言っていたとのこと。

そして2005年 (平成17年) に男子プロから女子プロトーナメントへと変更になり、 その後2024年の第42回大会まで開催された数多くのドラマが生まれる歴史ある大会となります。

Episode 15 揺れる日程を超えて迎えた歴史的会談

ヘリで降り立つ両首脳、 歴史的な会談の幕開けであった。
田舎家でのエリツイン大統領の会食風景。

1998年 (平成10年) 4月、 川奈ホテルは世界の注目を集めました。

橋本龍太郎首相とロシアのボリス・エリツィン大統領による日露首脳会談が、 この川奈の地で開催されたのです。

会談に向けては数ヵ月前から、 警察関係者による徹底的な施設点検が行われ、 通常使用しない扉や設備にも厳重な確認がなされました。

当日、 開催当日には警察官約3,000名、 海上には海上保安庁の巡視艇2隻が配備され、 警戒区域は伊豆半島全域に及ぶ厳戒体制でした。

ホテル周辺には数十メートルおきに警察官が配置され、 館内各所にも警備員が立ち、 かつてない緊張感の中で、 首脳会談は幕を開けました。

エリツィン大統領はヘリコプターで前庭に降り立ち、 随行の方々は大型ヘリで大島コースに着陸。

一行には大統領専属の料理人も同行し、 持ち込んだ食材でホテルの厨房で調理し、 大統領専用の料理が提供されました。 その時のエピソードで、 ロシアの料理人は、 ウォッカを飲みながら楽しそうに料理を作っていたそうです。

また、 ロシア側のスタッフの食事は、 グリルレストランにてブッフェスタイルで提供されましたが、 英語表示では理解されずフランス語で対応しました。 大統領専属SPは、 大統領を命をかけて守るため、 他のスタッフよりも優先的に食事を受けるという慣例もあったといいます。

首脳会談はサンパーラーで行われ、 夫人たちは田舎家でお茶会を楽しむなど、 厳重な警備の中にも穏やかな時間が流れました。

会談だけでなくエリツィン大統領と橋本首相は川奈沖に舟で出てふたりで釣りを楽しみ、 その際に大統領が大きなイサキを釣り上げたことは地元で大きな話題となりました。 地元民の話ではありますが 「あれは絶対海上自衛隊が大統領の針に付けたんだ」 という噂が当時は流れました。

日露首脳会談の日程は、 当初の予定からロシア側の都合によって、 直前に1週間延期されました。 用意していた飾りのソメイヨシノも、 散ってしまうことから、 天城山に開花を遅らせるために移していた別の桜を持ってきて飾りつけしました。 また、 ホテルにはもちろん一般のお客さまのご予約がすでに入っており、 宿泊のお客さまやゴルフのお客さまのキャンセルを急遽お願いすることになりました。 ご予約されたお客さまに連絡しご理解いただくだけでも当時は相当な大変な作業だったと思われます。 しかし、 唯一キャンセルできないご予約がありました。 それは結婚披露宴が日程が変わった会談予定日に予定されていたのです。 ホテルとしてもいくら首脳会談があるからと結婚式をキャンセルさせることはもちろんできませんでした。 式当日、 列席者は通行証の携行や持ち物検査を受ける厳重警戒態勢の中で披露宴が開催されました。

両首脳は迷惑をかけた新郎新婦を気遣い、 サプライズとしてふたりで花束を手に披露宴会場に訪問し、 祝福の言葉を贈ると、 突然の日本の首相とロシアの大統領の訪問に会場は歓喜に包まれたといいます。

色々なことがありましたが、 会談は両首脳が固く手を握り笑顔で終わり、 歴史的転換点にもなる可能性があった川奈での日露首脳会談となりました。

会談終了時に笑顔で手を握って前庭階段を下る両首脳。
披露宴会場に両首脳がサプライズで訪れ新郎新婦に祝辞を伝える。

Episode 16 川奈の土から生まれた奇跡

ホテル玄関横に建立された 「大村智博士 土壌採取の地」 の碑。
富士コース1番ホールの坂の途中に記念樹が植えられている
写真に映るのは大村智博士。
1980年 (昭和55年) に外遊で川奈ホテルにご滞在されたスウェーデンのカール16世グスタフ国王と王妃。

2015年10月、 北里大学特別栄誉教授の大村智博士は、 ノーベル生理学・医学賞を受賞しました。

大村博士は、 微生物が生み出す有用な天然化合物を探し、 長年にわたって日本各地の土壌を採取して研究を重ねていました。

1970年代、 趣味のゴルフを楽しむために訪れた川奈ホテルゴルフコースでも土壌を採取しました。

その時採取したサンプルから分離された微生物が生み出す物質が、 寄生虫による感染症に高い効果を示すことが研究で明らかになりました。

この発見をもとに開発された抗寄生虫薬 「イベルメクチン」 は、 世界中の患者の命を救う医薬品として広く使用されようになり、 ノーベル生理学・医学賞を受賞するとともに、 現在では世界中で年間数億名に投与される薬となっています。

川奈ホテルの土壌は、 溶岩台地であったゴルフコースを建造するために、 小田原などから土を船で運び、 雑草などの種を焼くために一度土を焼き、 目土をして芝を張ったという周辺とは違う特異な土壌でもありました。 そんな土壌がこの新薬開発の元となる微生物の発見に影響したのかもしれません。

そして、 スウェーデンのストックホルムでのノーベル賞授賞式は、 1980年 (昭和55年) に川奈ホテルにご滞在されたスウェーデン王国カール16世グスタフ国王から大村博士に授与されるという、 川奈ホテルに縁とゆかりのあるノーベル賞となったのです。

なお、 川奈ホテルではこの大地から生まれた小さな微生物が、 世界中の人々の健康を守る医薬品へとつながったこの奇跡の物語と大村博士を称え、 イベルメクチン開発に伴う土壌採取の地として、 富士コースの1番ホールの途中とホテル玄関横に記念碑を建立しています。

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